やる事あってのカップルか

愛する男と女はお互いがいるだけでいいと思われているようだが、それは嘘である。何をしていないように思えて愛する男と女は立派なアクティビティーを共有しているのである。ぐうたら抱き合って寝ていたり、いちゃついて過ごすのも立派なアクティビティーである。本当になにもしないのであればお互いが邪魔な存在になるだろう。

男女が付き合うことの最大のメリットはセックスだろう。そうでなければストレートな同性がもっとくっついていてもよさそうなものである。セックスは同一化の儀式である。セックスをして子供をつくるというのは自分の遺伝子とあいての遺伝子を半分づつ合わせて、次の世代に遺伝子の生存を継続させるということである。個体の生存でなく遺伝子の生存が重要なのである。

カップルの話に話を戻すとやることがないカップルは付き合う意味が無いのである。ただ退屈なだけだろう。一緒にできる色々なことがあってこそ恋人を作る意味があるのだ。その色々なことの大きなものにセックスがあるという話である。そして、どのような人を恋人に選べばいいかということであれば、一緒にできることがたくさんある人と付き合えば良いのである。一緒にできることが殆ど無い人と付き合っても不満足な関係になるだろう。

グループ主義

日本人は存在感が薄いから個人主義が根付かないのだということを言った。日本においては個人は透明な存在で、個人が起こす行動は奇異なものとして見られる。


それでは、日本は全体主義かというとそれも違うようだ。日本では個人主義全体主義の中間型が存在しているようである。ここではそれをグループ主義GROUPISMと呼ぶことにする。個人の行動の自由は殆ど無いが、友人や家族で一つのグループを作った時、それは欧米における個人と同じような役割を果たす。


日本ではグループとしての行動の自由はかなりあり、グループとして行動する分にはそれは社会的にまっとうな行動として見られるのである。日本人はグループのウチの人には細かい気配りを見せるが、グループのソトの人にはかなり冷たい人たちである。


日本では個人で行くアミューズメントは殆ど無いが、グループとして行って楽しいところはたくさんある。日本は個人では楽しくない国なのである。日本で楽しく生きようと思えば誰かとグループを組むしかない。

存在感のなさ

日本人には存在感(マス)が足りない所がある。一人では存在感が足りなくて二人でようやく一人前の存在感が得られるようだ。足りない存在感を補おうとして不自然で奇抜なファッションをしてみたりする者も出てくる。それでも素に戻るとやはり存在感のなさ隠せなくて、それは素の自分での自信の無さに現れる。日本に個人主義が根づかないのはひょっとするとこんな所にあるのではないかと思ったりする。

いつの間にか疑心暗鬼になっていた

精神的に落ち込んで、もう何も手につかなくなったので、今朝は山に登って心を癒すことにした。心の毒(心毒)を抜かなければこれ以上進むことができないと思った。3時間くらいいて、ぼんやりしたり、タイ語の勉強をしたりして時間を過ごすうちに、心毒はだいぶ抜かれたようだった。


ここには良い気が宿っている。良い気の力で心毒が抜けていくのを感じていた。心毒が抜けて心がきれいに戻ると、たまっていたときに見えなかったものが見えるようになり、考えられなかったことが考えられるようになる。


バイクで下山しながら色々考えていた。そして、最近の苦悩は何だったのかと考えた。そして、昨晩、ブッダのスッタニパータを読んだときに通り過ぎたことばがいきなり光を放って記憶から飛び出してきた。



「疑心を捨てよ」



そういえば、最近は誰も彼も裏に汚い・卑しいことを考えているんじゃないかという妄想に悩まされていた。誰も彼も会うのも見るのもいやになってどうしようもなく孤独になった。ひどい孤独で誰かに助けて欲しかったけど、疑念が強すぎて誰にも助けを求められなかった。


疑心・疑念・疑い・疑惑を捨てる・超える、ということばはスッタニパータに何度も繰り返し出てくる。でも、今の今まで自分は大丈夫と素通りしていたことばだ。自分が疑心にとりつかれているなんて考えもしなかった。


多重人格の告白の時に言ったように、これも、僕は恥ずべき事ではないと思い告白するが、僕は鬱(major depression)だ。じっさい、鬱が最悪の時には、精神エネルギーがほとんどなくなってしまって、原因を自分で探す事など不可能なのだ。山の精気に良い気をもらって鬱の原因となっていた心毒を取り除いて初めて、自分の心の中を遠くまで見渡せるようになって、何が原因であんなに悪くなったのだろうと考えることができるようになった。


他人に対して疑いの心を持たないようにすれば、つまり、疑心暗鬼を脱すれば、精神的重荷がその分落ちるのではないかと思って、山道をニュートラルで下山しながら考えた。そして、街に下りてきて早速そのように他人を見て疑わない実験をしてみた。馬鹿の一つ覚えのように、これだけを心の中で唱えて心がどう反応するかを測定した。


結果、思った通りだった。他人を疑いの目で見ないようにしたら、他人に対して恐れや嫌悪感がほとんど出てこなかった。そして、もう一つ気づいたことには、他人を疑いの目で見ることは、自分をも疑いの目で見ることだと言うことだ。他人のことを裏では卑しい事ばかりを考えていると疑っていると、それじゃ、自分はどうなんだという疑問が出てくる。自分も卑しい事を考えるではないかと。そして、自分に対しても疑心暗鬼になり、自己嫌悪になる。


この例を帰納してさらに一般的な仮説を立てると、他人に対する態度と自分自身に対する態度は同調する。と言うことがいえるだろう。他人に対して疑って、自分に対して疑わないでいることはできないのだ。少なくとも僕は。他人を疑えば、自分も疑い、他人を疑わなければ、自分も疑わない。それは、疑いだけではなく、様々な感情についても言えるのではないかと思う。他人を愛すれば、自分も愛することができる等。


さらに考えを進めてみる。他人を嫌い、自分だけを愛している人などいるのだろうか?言い換えれば、真にSelfishな人間がこの世にはいるのだろうかという問いだ。世間の俗説では、そういう人は存在し、最低の人間の見本のように思われているけど、今日を境に、僕はそう思わなくなった。そんな「他人を嫌い、自分だけを愛する」人間などいないんじゃないかなと思い始めた。それはそのSelfishと見なされている人間の態度から、他人がそう思っているだけで、案外、Selfishと見なされている人間は、他人を嫌いながらも、さらに強く自分を嫌っているのではないか?これは、「対自他態度同調説」と今名付けた仮説から演繹した推測である。僕はこれは正しいと思う。

一流の紳士になるには

僕は一流の紳士になりたいと思っています。それでは一流の紳士になるにはどうすればよいのでしょう?僕の考えを述べます。


まず第一に、一流の紳士は頭が良くなくてはいけません。残念ながら頭の良くない人は一流の紳士になることはできません。しかし、頭さえ良ければ一流の紳士になれるわけではありません。頭の良さは一流の紳士になるための"必要条件"であって、"十分条件"ではないのです。

そして第二に、一流の紳士は一般常識とは別に自分の独自の価値観を持っていなければなりません。公共の場では一般常識にかなった行動をしますが、自分の生き方になると自分の価値観を基に行動します。

そして、一流の紳士はお金持ちである必要はありません。貧乏でも一流の紳士はいます。世間には一流の紳士はお金持ちだという俗説がありますが、それは全くの嘘です。一流の紳士は、僕が一つ目の条件に挙げた、頭が良いという特性を持っているため、お金をたくさん稼ぐ能力もある人が多いのです。しかし、それは、第二の条件に挙げた、自分の独自の価値観で、お金を稼ぐことが重要ではないと判断した一流の紳士は、お金を稼ぐことはできても、そのことに時間や労力を消費せず、自分がもっと大事だと思うことに時間と労力を集中します。

そして、最後にここまで、一流の紳士と言ってきましたが、二流の紳士は存在しません。紳士は必ず一流でなければなりません。

パンダは中国のものではない。

ホモ・サピエンス登場以来、人間は地球上ほぼすべての土地に進出し、社会ができて、国家ができて、ほかの国家との国境(ボーダーゲート)ができてきた。現在地球上で人間の国家に属さない土地は人間が住むには厳しすぎる南極しかない(北極の氷の地面が土地だと規定しなければ)。


でも考えてみてくれ。ある国家の国民や政府がこれは自分の土地だと主張する土地は、ほかの動物や植物にとっては、いや、それはおまえの土地じゃない。といわれる類のものだ。領土とは要するに、人間が勝手に設定し、所有したと集団妄想するものである。


よって、そこに住む動物や植物は別にその国家に属しているわけではなくて、たまたまそこに存在するものなのである。パンダなど特定の国にしか生息していない動物は決して中国のものではなく、国家成立後の人間の人間中心・至上主義による勝手な所有なのだ。


だから、どこかの国に生息する動物や植物は、その国家のものではなく、国家に属するものでもない。よって、地球上のどこにいる動物や植物やその他生物(非生物でさえ!ここでは長くなるので割愛する)は国家や国民によってその所有を主張されるべきものではなく、独占的に利用され搾取されるべきものではなく、ましてやパンダのように外交に利用されるべきものでもなく、自国の生物多様性として誇られるべきものでさえない。

独りで泣くこと

一ヶ月に一度くらいでしょうか、ストレスが蓄積したり、感情(ポジティブ・ネガティブの両方)を大きく揺さぶられたとき、私は自室にこもり、独り泣きます。


涙が流れるのを流れるままにして、自然と感情が落ち着くのを待ちます。もう大の大人の男ですが、別に恥ずかしいことだとも男らしからぬことだとも思っていません。心の中にたまってしまったネガティブな感情(心毒)が日常生活でうまく排出(アウトプット)できなくて、脳のストレス限界を超えてしまったときに、涙を流し泣くことはそれを一気に浄化・排出させる役割があります。


涙は心を洗い流し、執着から自分を解放して自由な精神を取り戻し、厳しくも美しいこの人生を再び力強く歩き続けるチカラを与えてくれます。