いつの間にか疑心暗鬼になっていた

精神的に落ち込んで、もう何も手につかなくなったので、今朝は山に登って心を癒すことにした。心の毒(心毒)を抜かなければこれ以上進むことができないと思った。3時間くらいいて、ぼんやりしたり、タイ語の勉強をしたりして時間を過ごすうちに、心毒はだいぶ抜かれたようだった。


ここには良い気が宿っている。良い気の力で心毒が抜けていくのを感じていた。心毒が抜けて心がきれいに戻ると、たまっていたときに見えなかったものが見えるようになり、考えられなかったことが考えられるようになる。


バイクで下山しながら色々考えていた。そして、最近の苦悩は何だったのかと考えた。そして、昨晩、ブッダのスッタニパータを読んだときに通り過ぎたことばがいきなり光を放って記憶から飛び出してきた。



「疑心を捨てよ」



そういえば、最近は誰も彼も裏に汚い・卑しいことを考えているんじゃないかという妄想に悩まされていた。誰も彼も会うのも見るのもいやになってどうしようもなく孤独になった。ひどい孤独で誰かに助けて欲しかったけど、疑念が強すぎて誰にも助けを求められなかった。


疑心・疑念・疑い・疑惑を捨てる・超える、ということばはスッタニパータに何度も繰り返し出てくる。でも、今の今まで自分は大丈夫と素通りしていたことばだ。自分が疑心にとりつかれているなんて考えもしなかった。


多重人格の告白の時に言ったように、これも、僕は恥ずべき事ではないと思い告白するが、僕は鬱(major depression)だ。じっさい、鬱が最悪の時には、精神エネルギーがほとんどなくなってしまって、原因を自分で探す事など不可能なのだ。山の精気に良い気をもらって鬱の原因となっていた心毒を取り除いて初めて、自分の心の中を遠くまで見渡せるようになって、何が原因であんなに悪くなったのだろうと考えることができるようになった。


他人に対して疑いの心を持たないようにすれば、つまり、疑心暗鬼を脱すれば、精神的重荷がその分落ちるのではないかと思って、山道をニュートラルで下山しながら考えた。そして、街に下りてきて早速そのように他人を見て疑わない実験をしてみた。馬鹿の一つ覚えのように、これだけを心の中で唱えて心がどう反応するかを測定した。


結果、思った通りだった。他人を疑いの目で見ないようにしたら、他人に対して恐れや嫌悪感がほとんど出てこなかった。そして、もう一つ気づいたことには、他人を疑いの目で見ることは、自分をも疑いの目で見ることだと言うことだ。他人のことを裏では卑しい事ばかりを考えていると疑っていると、それじゃ、自分はどうなんだという疑問が出てくる。自分も卑しい事を考えるではないかと。そして、自分に対しても疑心暗鬼になり、自己嫌悪になる。


この例を帰納してさらに一般的な仮説を立てると、他人に対する態度と自分自身に対する態度は同調する。と言うことがいえるだろう。他人に対して疑って、自分に対して疑わないでいることはできないのだ。少なくとも僕は。他人を疑えば、自分も疑い、他人を疑わなければ、自分も疑わない。それは、疑いだけではなく、様々な感情についても言えるのではないかと思う。他人を愛すれば、自分も愛することができる等。


さらに考えを進めてみる。他人を嫌い、自分だけを愛している人などいるのだろうか?言い換えれば、真にSelfishな人間がこの世にはいるのだろうかという問いだ。世間の俗説では、そういう人は存在し、最低の人間の見本のように思われているけど、今日を境に、僕はそう思わなくなった。そんな「他人を嫌い、自分だけを愛する」人間などいないんじゃないかなと思い始めた。それはそのSelfishと見なされている人間の態度から、他人がそう思っているだけで、案外、Selfishと見なされている人間は、他人を嫌いながらも、さらに強く自分を嫌っているのではないか?これは、「対自他態度同調説」と今名付けた仮説から演繹した推測である。僕はこれは正しいと思う。