死、そして新しい精神の始まり

朝からひどい気分だった。
肉体は疲れているのに、精神は妙に覚醒していて、長く眠ることはできない。朝からウィスキーのボトルを持ってきて、2杯ほど飲む。心は徐々に高揚してくるが、その裏側で苦い罪悪感が立ち昇ってくるのをいかにもしがたい。外に出ればどうにかなるかと思い、だだっ広い河川敷に出て、コーヒーを飲みながら本を読む。V.S.ナイポールの「ある放浪者の反省」。ひどく憂鬱な本。天気はいいのだがそれと自分の心の暗さのコントラストが際立って、惨めな気分になってくる。その後、図書館に行って本を読もうとしたのだが、心のうずきはどんどんひどくなって耐えがたいものになっていった。座って本を読んでいられない。他人の存在が耐えられない。苦しい。おれは図書館を出た。

人との触れ合いに飢えていた。組織やグループに属さないおれは、否が応にも孤独を甘受しなければならなかった。それはアンテナのないテレビ、インターネットにつながっていないパソコン、コンセントの刺さっていない電化製品に似ていた。外からパワーを得られない限り、自分でペダルをこいで電力を生み出さなければならなかった。それは、非効率的で、退屈なことだった。ペダルを漕ぐのをやめれば、そこでおれの人生は動かなくなってしまう。周りの人間のリレーショナルでエネルギッシュな人生を横目に見ながら、それをできない自分の性格を呪った。彼ら、彼女らは、苦しい時に声援を送ってくれる人がいるのだ。完全に落ちてしまう前に、それを感じ、受け止めてくれるセーフティネットがあるのだ。おれにそれは望むべくもないことだった。おれが落ちる時、それは高いところから硬い地面にスピードをゆるめることなく高速で衝突し、原形をとどめぬ程に炸裂することを意味していた。

精神がここ最近悲鳴を上げるのを知っていた。古い情報が脳を占領し、トラウマが絶えず自分の心を責め。完全に心のバランスを失っていた。バランスを取ろうにももうそんな精神力は残っていなかった。自分が自分自身を追い込み、一歩一歩崖のふちに追い込んでいったのだ。もう、運命を押し返す力など無かった。崖からぽんと飛び降りるだけのエネルギーしかなかった。

その時、わかった。これは死の苦しみなのだと。老いた自分の精神が死んで行く前の断末魔の苦しみなのだと。そして、新しい精神が生まれてくるためには、古い精神が死んでしまわなければならないのだと。死の苦しみを回避することはできない、というより、死の苦しみは回避する必要さえないのだ。死はそれまでのすべてを包みこんでゆく。新しい精神は、その記憶を継承することにはなるが、もはや、その苦しみや、呪われた運命を抱え込んではいないのだ!